米と未来 vol2(後藤幸子さん) | おいしいおこめのおすそわけ

おいしいおこめのおすそわけでは、「むすび米」という最高のお米のみを販売しています。
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「米と未来」とは

僕たち「おいしい おこめの おすそわけ」は、「1000年後のことは分からない。でもきっと、米は食べている」をビジョンに掲げ、おいしい日本米を一人でも多くの方に届けるべく、日々活動をしています。
「米と未来」は、お米の魅力と未来をもう少し深く考えるために立ち上げた特別インタビューの企画です。
 お米を愛する古今東西の方々に、お米にまつわるエピソードを大いに語っていただきます。
 1000年後の未来やお米はどうなっているか、自由に思いを馳せてみます。未来の字には米がある。
 未来がより輝きますように!

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後藤さんは、「東京すしアカデミー」の校長先生でいらっしゃいます。

第2回のインタビューをお願いさせていただいたのは、東京すしアカデミーの後藤幸子さんです。
東京すしアカデミーは、2002年開校の日本の学校としては最も歴史が古い寿司の専門学校。
特筆すべきは、海を渡る寿司職人を続々と育ててらっしゃること。卒業生は世界50カ国以上で活躍中です。
世界の寿司ブームをけん引しているこの学校では、光栄なことに僕らのお米も扱っていただいております。そして、後藤先生とは青山Farmer’s Marketにて一緒に「飾り巻きずし体験講座」を開催していただくなど、いろいろな形でかかわらせていただいています。
今回は、後藤先生にこれまでの人生を振り返っていただきながら、食べることについて、お寿司とお米について、話を伺いました。

【後藤幸子さんプロフィール】
大学卒業後、鎌倉の懐石料理「味味喜」で、日本料理の板前の修業。その後、ホテルオークラなどで製パン業、際コーポレーションで、麻布十番の和食店「喜虎」の店長を最後に独立を果たす。
神保町で日本料理「徳亭」、「ワインダイニングate」をオーナー経営する傍ら、東京すしアカデミーにてディプロマコースの英語での授業、飾り巻きのなどの講師を兼務。マルチな才能と日本食だけでなく、幅広く各種料理の知識を持つ講師である。
著書 「はじめての飾り巻きずしとデコちらし」(日本文芸社)。

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原風景は田んぼ:父の田舎・岐阜県伊那の風景

千葉:小さいころのお米との思い出はどんなものですか?

後藤先生(以下、「後藤」):小さい頃の記憶は、岐阜県の恵那の田んぼの風景です。父の故郷で、農家の息子でした。父自身は地元の高校から東京の大学を出たサラリーマンでしたが、まだ実家は残っていて、田んぼも親戚の農家さんにお願いしてお米を作ってもらっていて、そこに年に何回か家族で行くんです。父も退職したら「ここで百姓をやる」と聞かされていたこともあって、「百姓」という仕事があり、そのような生き方を大事なものだと根本に感じていました
5歳のころの、父と一緒に新米をもらうときの記憶。その時、何俵持って行くか、という会話をしていました。
父が「昔は一俵担げないと駄目だったんだ」とか言っていました。台所にあるお米というよりも、田んぼでどういう風に育って今年何俵とれた、みたいな、自然のサイクルとしてのお米が、小さい自分にとってすごく印象的でした。料理というより、「農業」というくくりのなかにあるお米という感じ。田んぼ風景.tif家族の生活の中にそれがあった。米というものは一俵というのが大事というか。父の影響で、子ども心に「一俵、担げなきゃ」と思っていたんです笑。

千葉;一俵担ごうと思ったら僕たちでもすごく大変です(笑)

後藤:未だに「担ごう」「それが大事」と言う感覚もあります。お米に限らず、なんかあると担がなきゃと思っちゃいます。パン屋の時も、小麦の袋とか見ると、「担げるかな?」「私担ごう」と思っちゃうんです。(笑)

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小学校の頃の夢は「料理の仕事」

千葉:料理を仕事にすることはいつごろ意識したのですか?

後藤:小さいときから本当に料理が好きでした。小学校の卒業文集には既になりたい職業に「料理の仕事がしたい」と書いていました

千葉:幼稚園児や小学生が将来お母さんになりたい、料理をしたいということはありますが、それを商いとして実現されているのは多くはないことだと思いますね。

後藤:でも多分、あの頃思ったことって、自分にとって、本質的な生き方を考えていたりしてたりしますよね。その作文には、料理の先生になりたくて、出来れば、自分で作った材料で教えるような料理の先生になりたいと。これは、農業ということを父が私に教えてくれたことがあり、子供の頃から農業が少し身近にあったからです。自分の食べるものを自分で作るということに対して意識がある子どもだったんですね。

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身体を鍛えた大学時代

後藤:自分は「高校行かない、大学行かない。早く料理の仕事がしたい」と言っていたのですが、父もビジネスマンでしたので、「大学へ行って、20歳までは出来るだけ絞り込まないで勉強しなさい」というのが家の教育方針でした。いろんな方向へ進む友達が周りにいる環境になるまでは親の責任、みたいに考えてくれていたみたいで、大学行こうと1年浪人しました。ただ、何学部に行って何を勉強したいというのがなく、強いて興味があったのが、国語、古典とかが好きでしたので、文学部で近代の文学を勉強したいなというのがありました。
一方で、当時は女子大生ブームでした。でも、私の性格では女子大はなじめないだろうとわかっていたので、明治・法政・早稲田だったら居心地が良いのではないか、と思っていました。オシャレに疎かったので、間違っても青学とか、これは勝手なイメージなんですけど、そういうところでお友達と仲良くなるというのは難しいと思ってしまって、そういうイメージでなさそうな大学で、どこかに行こうかなと。もうひとつは、人が大勢いる大きな大学に行こうと思って、一浪してたまたま早稲田の法学部に合格したのでそこを選んだ、という感じです。

千葉:どんな大学生活でしたか?インタビュー風景.tif後藤幸子さん

後藤:入ってみたら、大学時代は法学部の授業には本当に行っていなくて、板前になろうと思っていたので、体育の授業ばかりうけていました体を鍛えようと思って。運動部をやりながら、体育の授業の単位は確か4単位あって。通年のものや季節のスケートの授業とか。ウエートトレーニングの授業とかコソっと行って。
運動部のアーチェリー部に所属していました。矢を飛ばしてみたくって。アーチェリーは芽が出ませんでしたが、とにかく体を鍛えていました。六法もわからずぐらいで、卒業しちゃいました。
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料亭で修業。叩き込まれた日本型の修行

千葉: それで、先生は大学をご卒業されて・・・?

後藤:卒業する時に、普通の就職は、食品メーカーとかに行ってみようかなとも思ったのですが、そんな大学生活でしたので、成績もそれほど良くなく、普通の就職をしても、おそらく、また料理の仕事をどこかで自分はしたくなるだろうと。大学の就職部にも行きましたが、希望に合う会社はありませんでした。
大学4年生の時から知り合いのツテを辿って、料理の修行が出来る店を探していただきました。知り合いを通して、鎌倉の方で懐石料理のお店の方が預かってくださるということで、大学4年生の夏からそちらでお世話になっていました。夏休みはアルバイトで毎日通って、秋からは、大学の授業もありましたが、週末とかに顔を出し続け、そのまま就職ということになりました。その時は、日本料理がいいなと。自分の国の料理がやりたいというのがありましたそこが仕事のスタートでした。

千葉:どんなお店ですか?

後藤:今はもう無くなってしまったのですが、鎌倉のいわゆる懐石料理屋です。吉兆とか大きなお店で修行した方が開いたお店でした。そこでアルバイトから合わせると通算6年ぐらい、仕事をしました。
最初の3年間くらい、私にとってはすごくインパクトの強い、自分のそれまで考えてきた価値観とは全く異質の世界でした。
自分が今まで得てきた常識、教育が一切通用しない世界。ある意味では偏った世界といいますか、徒弟制度みたいな、日本の芸事、歌舞伎とか相撲とかの日本独特の世界観というような。時間の感覚や人との上下関係とか、家制度に近いかんじです。悩んだこともすごく自分の中に残っていて、日本料理屋さんの持ってる世界観は、その後の自分に強い影響を与えました。

千葉:その辺りを詳しくお聞かせいただきたいです。

後藤:例えば「10年間は何も考えずにやれ」とか、「今までやってきたことは通じないと思ってやりなさい」とか。もちろん、「Yesはあって、Noは無し」。それは体育会系みたいなところは私は慣れていたつもりですが。
そんなに独特の価値観を「そういうこともあるのかな」と冷静には見れなかったんですね。その中に急にドスンと入ってしまったので。
自分が周りの世界とは全然別の中で仕事して暮らしているみたいな。大学時代の友達とかが気軽に会ってる中、そういうようなところとは一切できなくて。全く違うところに居ました。
外とは連絡もほとんど取らなかったですし、取れなかったですし、時間も違いますし、たぶん、店としてもそういう所と接触させないようにしていたのかも知れないですし。
お給料ももちろん安くて、当時初任給は8万円か10万円だったと思います。時給にしたら400円くらい。でも、食べものはあるし、寝れば、後はお金使うところもないでしょといった扱いでした。「小僧」ですね。

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6年目の決断。反動で遠いところに。

千葉:6年で区切りをつけたのですね。

後藤:6年たって、28歳になっていました。「とにかく10年はやりなさい」とずっと言われていたのですが、5年目ぐらい経った時に、あと5年このまま居ると、完全にここの人になってしまって、他に行けなくなる。このお店にとって都合のいい自分になってしまう。そうなってしまうことへの恐怖感みたいなものが5年目ぐらいからものすごく大きくなってきて、出ようと。もうあと5年、頭の中を空白にしてやり続けるのは無理だと思って、辞めました。

だからといって、転職するという意識ではなかったので、6年間の反動で遠い所へ行こうと思い、北海道へ行きました。鎌倉から離れたほうが気持ちが切り替えられると思いました。

北海道で知人がUターンして小さなホテルを始めた方がいて、縁があって、知床半島の麓のホテルに1年間いました。最初はそこに5年ぐらい居ようと思っていました。日本料理をやった次の5年は北海道で、産地で暮らそうと。生産地で暮らしたいと思ったのです
料理の仕事をしているのに、食材を買うという状態のまま料理の仕事をしている事が、なんとなく中途半端という感じがありました。農業でも漁業でも良かったのですが、「食材が取れるところで料理のことを考えたい」と。

働いたホテルは50人ぐらい収容できるリゾートホテルでした。周囲の環境がすごく楽しかったです。小麦とじゃがいもの農業地帯、畑作地帯でした。少し行くとオホーツク海があったりして。そこで、小麦の生産者の方と知り合ったりして。ホテルの仕事もさることながら、そういう出会いが面白かったです。

ところが、5年計画で行ったものの、運転が出来ないということと、行った先の経営が傾いたことが理由で1年で戻ってきてしまいました。

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帰京してパン屋に。社会人10年目の大スランプ「自分は職人にはなれない」

後藤:東京に帰ってくることになりました。その小麦の生産者の方から自家用に作った、小麦粉をいただいて、次はパン屋になろうと。それが30歳になる頃だと思います。
まだ、どこかに職人になりたいという思いもあったのですね。そこでパン屋さんの本を見て、食べ歩き、個人のお店で感じの良さそうだったお店に手紙を書いて、本郷の東大の農学部の門の前にある、小さなパン屋さんで働き始めました。

千葉:手紙ってすごいですね。

後藤:「じゃあ、来なさい」と。でも、ちょっと頑固親父だったので、あまり相性が良くなく、そこでは3,4ヶ月ぐらいで辞めて、そのあと、少し大きな工場ともう1件個人のお店で都合3年ぐらいパン作っていたんです。

そうこうしている時に、働き始めて10年目になり、33歳の時に大スランプがやってきて、その時は普通にパンの製造の仕事をしていたのですが、好きで食べ物の仕事がやりたくて、職人になりたくて、日本料理をやって、製造の仕事をやってきたけれども、モノになっていないと。これでやっていける感じが自分の中に全然なかったのです。名刺ひとつない、一人ぼっち。生きていけるのか。1年ぐらいスランプでアルバイトをしながら、どうしようと思っていた時期がありました。

でもその時、冷静にこの10年間やってきたことを考えてみると、私は、何か一つをやるとすぐそれと全く反対のことがしたくなるんですね。日本料理をやると、それと別の料理をしたくなる。料亭にいると、生産地に行きたくなったり。何か自分がやっていることで満たされないものを次の仕事に求めて。自分が考えるままに行くので。ひとつのことに深まっていくということがなく、転々として、まとまりがなく仕事を選んでいたので、「これは、職人ではないな」と。職人というのは、こういう考え方をしていてはダメだと。

パンをこねたり、クリーム混ぜたり、一日そら豆を剥いていても楽しいんだけれど、仕事になっていかない。仕事は楽しんでしまってはダメだと。これで、「自分は料理の職人になれない」と10年目ではっきり決めたのです。
一方で、IT化が進んだ10年間でもあったので、今更OLに戻れないこともわかっていました。スーツを着る仕事は出来ないと。どうしようと思って1年ぐらい落ち込んでいました。

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結局、料理が好きだった。飲食店開業の決意。

後藤:落ち込んだ末、結局、料理が好きだと

最初の鎌倉の料亭で仕事での影響が残っていたので、自分の価値観をまた確かめたいと思って、日本料理に関わる仕事を、料理人でなくともやって行こうと思い、飲食店で働き始めました。

ただ、もう調理場に入りたいとは思わなくなっていたので、サービス面だったり、飲食「業」というものを勉強しようと思って、際コーポレーションに勤めることになりました。そこで飲食店の経営とか、店長をしているうちに、いろいろ価値観が合った日本料理の職人さんと意気投合して、お店をやろうということになりました。
自分にないものをもっている人と組めばお店が成立するのではないかと単純に思いました。

それが36歳の時でした。絶不調の期間が3年くらいあって、その間に最初の料亭で学んだ価値観を十分に租借しきれていないと気づき、その価値観を料理人として持っている人と出会った時に、もう一度再現してみようという思考になりました。
その職人さんと個人的なパートナーになることはない、と確信できたことも、開業しようと踏み切るいいきっかけでした。夫婦で仕事をする、というのは好きになれなかったので。その職人さんとはそうはならない安心感がありました。
もう一つ、祖母が私のために貯めてくれていた100万円の入った通帳をくれました。これで店が出来ると思い、それを元手にお金を借りてお店を始めました。それが37歳の時でした。

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すしアカデミーとの出会い。

後藤:そのお店は昨年の暮れ、49歳になるまで12年間、経営しておりました。
神保町の20坪ぐらいの小さな場所でその板前さんと一緒に日本料理で9年やって、最後の3年は日本料理ではなく、洋食のコックさんと組んでワインダイニングをしていました。
お店をやっていた4年目からここ(東京すしアカデミー)に来ています。

東京すしアカデミーとのお店を片手間にやろうとしたことではなく、お店は3年間順調にやっていたのですが、3年経った時にもう1店出しました。大きな投資をして2店目を出したのですが、結果失敗してしまいました。3ヶ月で閉めたのですが、これから返済という時にお店を締めるということになってしまい、自分の中で、どうやったらこの状況を続けていけるかなと思った時に、お店もやりながら、自分が少し違う方向に出て行って、広がりを作っておかないと、今後起きてくる状況に対応出来ないと思ったりして。
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その時に、この学校のことを知りました。開校して3年目の頃です
もう一回、包丁を持ちたい、楽しいことをして気分転換をしたいというのもあり、2ヶ月程、生徒として授業を受けました。
その時に代表の福江から話があり、アシスタントとして雇っていただきました。
昼間は学校でアシスタントをして、夜はお店に戻ってというところからスタートしました。
それが2005年の話なので、この学校とは足かけ10年になりますね。
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食べ物は切った瞬間・火が通った瞬間が一番おいしい

千葉:そのようなさまざまな経験をされて、東京すしアカデミーとのご縁に至るのですね。

後藤:基本的には22歳の時から実質49歳まで、なんらかの形で飲食業をやっています。

千葉:日本料理についての考え方がどう変わっていかれたのか伺ってみたいです。学生時代、料亭での修行時代、独立開業された頃、そして今、どんな変化がありましたか?

後藤:最初は最も自分にとって身近なものだと考えていました。自分の国の食べ物だし、感覚等々、理解しやすいだろうと。フランス料理なんかは多分、理解するDNAが足りないだろうと。元々が、自分の家がレストランを経営しているようなバックグラウンドはなかったし、むしろ父は百姓が一番すごいんだ、みたいな環境でした。生きることとか、生命力を食べ物がもっていると思っていましたので、料亭に入ってみて、どっちかというとがっかりしました。「一番おいしい状態で出していない」と感じたのです。綺麗だったし、確かに「作られた世界観」がお皿の上にはありました。盛り付け、季節、お皿、お花、しつらえ等。世界観はありましたが、「食べ物として、本当においしい状態で出していない」と感じました。(鎌倉での)アルバイトのころから、まかないご飯を食べてみて、炊いたお米については、自分の家のご飯の方がおいしい、と思っていました。家では、電気釜ではなく、その都度鍋で焚いていて、炊きたてのご飯を食べていましたから。お店だと電気釜で焚いたものを保温せざるを得ません。また、お店では、料理は仕込みをした状態で冷蔵庫に入れ、オーダーが入るとそれを出して仕上げて出す、という仕組みです。でも、食べ物の香りが一番でるのは、切った瞬間と、火を入れた瞬間なんです。例えば、野菜をぱっと切ると、香りがぱっと立つ。例えばホウレンソウをその後、ゆでると、その瞬間に匂いが立つ。そしてゆでて、だしにつけて、冷蔵庫に入れちゃうと、その後に綺麗に盛り付けて出した時は、いわば「死んだ状態」な気がして、野菜の良さを殺してお客さんに出してしまっているのではないかと。そういう気がずっとしていました。お店で、朝掃除をしたりしていると、調理場で仕込みをしている担当は、何を今ゆでているか香りで分かるんです。でもその状態を過ぎてしまうと、素材は最高の状態とは言えず、本来食べ物がもっている「おいしい状態」は、過ぎてしまっていると感じるのです。

千葉:本来のおいしさを殺しちゃっているということでしょうか。

後藤:そうですね。飲食店の経営上、接客上やむないこともあります。それを提供するのが料亭であり、お客様もそれを求めていらっしゃっている。それ自体が成立していることはおかしいとは思わなかった。ただ、食べ物を仕事にしたいと考えていた自分の感覚としては、「なんかズレているな」と5年間ずっと感じていました。その違和感がきっかけで、生産地(北海道)に行ったんですね。

食べ物を商売で扱う以上、それは出来ないんだな、と感じました。かざりまきずし体験.tif巡り巡ってたどり着いた結論としては、「演出としては食材のもつ素材感をアピールしていますが、飲食業と言うのは、『食の場』を提供するところであり、食べ物やお酒と共に人同士のコミュニケーションが弾む場を提供するところ」というものです。そういうところなんだと。自分が感じた「人間として生きるとか、一生とかいう長いスパンで捉える食の概念とは根本が違うもの」だなと。そこに納得できたから、自分のお店も去年クローズしたということもありますし、今やっている「教える」という仕事は、教育、職業訓練事業であり、飲食業とは異なると考えています。

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料理を教えるということ。一人一人の食の原体験を実現する。

千葉:ずっと食材の近くにいらっしゃり、そして、飲食店についての結論を持たれた後藤さんは、何か、「食材を活かす」ことについてアイデアをお持ちですか?

後藤:個人が自分で楽しまなきゃいけない。それを意識して生活するのとしないのはずいぶん食生活が変わってくると思います。誰しもその人なりの原体験を持っているはずで、そんな個人の「食の原体験」と毎日の食事が結び付くこと、それが出来るようになることをイメージしています。
そのための方法の一つが、料理の技術だったり、意識づけだったりするわけです。

生徒さんとお話をしてみても、多くの方が学んだことを「仕事に活かしたい」とおっしゃっていますが、もう少し深くたどっていくと、その人が「なぜ食をやりたいのか」その人の生きることと結び付いた原体験を聞くことが多いんです。色々な年齢で人は(その原体験を)再現したいんだなあ、と感じます。切ったり、煮たりした時の面白さだったり、そこで感じる幸せだったり。

そういうことを積み重ねていくと、人が変わっていくんです。自己を実現していくといいましょうか。その過程で、何らかの形で、お役に立てたらなと。生徒さんの中には、そういうことを非常に強く意識してこられる生徒さんもいます。そういう人と会う度に、「人にとっての食」について考え、それに関わりたいと感じています
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2人の生徒の何気ない一言からの気づき。食は生きることと直結している。

千葉:後藤先生にとっての「人にとっての食」とは何でしょうか。非常に気になるキーワードでした。

後藤:日常は無意識だと思うのですが、「その人を根本的に、精神的に支えているもの」だと感じています。
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昔、ある50歳を超えた会計士の方が生徒さんで来られました。その方は、北海道の方で、「魚をさばきたい」とおっしゃいました。聞くと、昔、お母さんが普通に自宅で魚をさばいてご飯を作ってくれていたと。今はご自身は東京で生活しているが、「魚をさばけないまま死んじゃうと、一人前になれていない気がする」とおっしゃるんですね。「子供のころにお母ちゃんがイカを捌いてくれた。自分がイカを捌いてイカの刺身を作って食べられるようにならないと、育ててくれた母ちゃんに申し訳ない。人として未完成だ。」、そうおっしゃっていました。「家庭で感じた食体験を実現できないで死にたくない」と。そういうものって誰の中にもあるんじゃないかな、と感じたんです。

千葉:その方は、ここで学ばれて、なんておっしゃっていましたか?

後藤:「これでやっと自分自身納得できた」と。その頃、子育て中でもいらっしゃったので、「これでやっと自分が家庭を作って子供を育てていける」としっくりきているような感じでした。仕事の中で実現できなかったことがすごく強かったようです。

あとは、MR(医薬系営業)をお仕事でされている方が、平日は本当に仕事が大変な中で週末だけ習いに来ていました。この方は、お寿司を握るのが決して上手ではありませんでした。うまく作ろうと言う気がないんですよ。で、お話していたら、「触っているだけでいい」「米を触っていると落ち着くんです」とおっしゃったのです。普段のお仕事は精神的にも大変で、こうして食べ物に触れている時間が必要なのだと。だから「僕の場合は形にならなくていいんです」みたいな。すしアカデミーで技術を学んでその道で就職する、という通常のコースとは異なった受講の仕方ですが、私はそういう部分に非常に共鳴しました。こういう学び方もあるのだなあと。私の持っている食に対する感覚が仕事での出会いを通じて試されている感じです。

千葉:「土を触っていると落ち着く」という話と少し似ていますね。

後藤:そうですね。人として「生命感のあるもの」を仕事にされたいと。IT業界の方もよく飲食業に転職してこられるのですが、理由と聞くと、「生きることと直結する仕事がしたい。だから飲食業なんだ」と。ある程度齢を重ねた方がそうおっしゃいます。現代人は、「生きることに直結している感覚」を食に求めるんだな、と感じます。アイデンティティだったり、最後の部分で自分を支えるものだったり。農業を始められる方もきっとそうですよね。

千葉:人にとっての食や原体験がものすごく大事、本当に賛成です。そして、美味しいお米をたべて原体験を得る機会が少なくなっていると感じています。お米の米価が下がり続けている背景にも、きっとそういうものがある。お米を届ける側が、その体験まで届けられていない。農家の存在が遠い流通やお米の保管、精米のタイミング等、お米がおいしい状態で届かない。それを少しでも良くしていきたいというのが僕らの活動なのですが、今後、食材、お米、おいしいものが将来どう残っていくのか、後藤さんのご意見を伺ってみたいです。

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お米をうまいと思う感覚は不変。

後藤:大変な現状をよく理解していないからかもしれないが、私は駄目になっていくとは全然思っていない。むしろ、そうじゃない状況を経て、人々の関心が戻ってきている。逆に大事にされていくのではないか、と考えています。駄目なことに目を向けはじめれば、戻っていくわけであって、「おかしい」が伝われば絶対正常な方向に戻る。「(お米が)あるのが当たり前ではない。意識しないと残っていかない」と気付いた以上、きっと大丈夫なんじゃないかな、と感じています。

お寿司もそうです。亜流(の寿司)に接すると、ホンモノってなんだろう、と人は考えます。例えば、海外でお寿司を食べた人は、ホンモノの寿司がどんなものか味わいたくなって日本に来たりします。お米なんかも、本来じゃない姿になったものを口にしていると知れば、本来どうなきゃいけないか考えられる。基本的に人間の思考回路は亜流だとわかって亜流に触れたら、本質に行きつきたくなる、というのが絶対だと思います。しかも米って言うのは、日本人にとって身近なものですしなおさらです。

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お米を握る、空気と意思が入る。

小木曽:お米のおいしさについてなのですが、お寿司のように、「米を握る」ことってどんなことでしょうか?手で力を加えるって、独特な「料理法」な気がします。

後藤:握るところに「意思」が入る、かんじでしょうか。ただ「ぎゅっ」って圧縮するように握ることをやりすぎちゃうと、寿司もおにぎりも美味しくないんです。空気を入れる、と言うのがコツなんです。食べ物って空気が入っていないと美味しくないんです。ムースもなんでもそう。空気を含ませることによって、口当たりが良くなるんです。食べた時においしい、って感じるものってうまく空気が含まれている。

寿司も、手で持ち上げて、口に入れるまでは壊れちゃいけないんだけど、口の中に入れたら、すぐに壊れた方がいいんです。海外のお寿司とか、すごく固めてあるので、ドボンと醤油に入れても壊れないようになっているけど、あれはやっぱり駄目。職人さんがネタに醤油までつけて提供するのが本来の姿なのも、醤油をつける過程でシャリが壊れるからそうなんですね。だから、箸で持っても駄目と言う職人さんがいるのも同じ理由です。ふわっとした空気感がある、というのが理想の握りです。黒板.tif

初心者と熟練している人の空気の含ませ具合が異なります。べとっとして美味しくないとか。空気を含ませて、空気と米をまとまらせる行為です。それでありながら、最低限壊れないように形にもしなくてはいけない。それが寿司飯やおにぎりを握る時の目指す姿だと思うんです。

その辺の手加減を経験的に学んでいけるように、指導を心掛けています。

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お米の未来。「飯が旨い」という感覚は変わらない。
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千葉:1000年後も日本のお米は残っていると思いますか?

後藤:この国がある限りは、飯を食べる人種としての日本人はなくならないはずです。父の世代、昭和一桁生まれの世代に比べたら、平成生まれの今の子供たちは食べるお米の量は少ないかもしれないけど、どちらも「飯が旨い」と思う感覚は持っているのではないでしょうか。普段ハンバーガーを食べている子供も、美味しいご飯をちゃんと出して、これを食べて大きくなれと、ちゃんと迫力をもって伝えれば、美味しさに気づいてきっと食べるようになると思うんです。時代は変わってしまったと言えば簡単ですが、人の味覚はそう簡単には変われないと思います。大丈夫じゃないかなと思いますね

千葉:過去の原体験とキャリアを伺ってからこそでしたので、私にとってすごく腹落ちがしました。

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これからのこと。それぞれの料理と向きあう

千葉:今後こんなことやりたいぞ!ということは何でしょうか。

後藤:まだまだ自分なりに食と関わりながら生きていく、職業として、日々食べるものも含めて、まだまだこれからという感じです。

やっぱり、自分が料理を教えるということの意義を追及したいです。できるだけ沢山の人、おこがましいですが「全ての人の料理に関わりたい」と思っています。全ての人がどういうことを考えて、どういうところを大切にしたら、おいしく料理ができるようになったと感じるか。それは人それぞれですから好奇心は尽きないです

それに、これから世の中は、自分で自分のご飯を作らなきゃいけない人が増えると思ってます。そのときに、通り一遍に向き合うのではなく、その人その人が「どういうことが実現できていれば、その人の食が満たされるのか」ということを追及したい。

今まで自分が食と向き合ってきた経験を活かしながら、いろいろな人とそれをやりつづけていきたい。ずっと一生やっていきたいことです。
その人が、80歳になった時に、自分でご飯を作らなきゃいけない時に、自分で作れて、自分が満足するご飯って、何なんだろう。例えばそれは、母親だったり、奥さんだったり、これまで作ってもらってた方の価値観そのものかもしれないし、あるいはそのときの生活の中から見出すものもあると思う。それらと1つ1つと接して行きたいというのが究極です。私として向かう先は、そういうところかなと考えています。

私は、人生は、23年周期だと考えています。23、46、69、92歳。そしてそれぞれの23年間は、最初の3年の努力のおつりであとの20年間がついてくると考えています。例えば、生まれてから3歳までに親が育ててくれたおかげで、その後大学に入れたり、23歳で仕事をはじめられるようになる。その後の最初の3年の料亭での修行で感じたことがずっと尾を引いて、時にはその反動で北海道に行ったり、飲食業を46歳までやってきました。でもその時に持っているモチベーションでは、もうあと20年は仕事を続けられない、と思ったんです。最初の23~26歳であったものはその後の20年間で確かめ尽くした、という感覚です。そこで、次は46~49歳までで自分が面白いと感じることを見つめ直せば、また次の20年いけるだろうと、考えています。
今49歳なので、この3年で、自分の中でこの学校を通じて日本食を海外にどう伝えるか、日本人にどう伝えるか、といったこと追及していますが、最後の23年間まで、つまり自分が69歳~92歳の期間にむけても、人生を楽しく生き抜くためにも、さきほどの構想を成し遂げたいと思っています。そのためにも今をがんばろうと

そんな感じで、自分の中で個人的にもっている、食についての思いを、お店や教育等、職業として姿は変わっているが、自分の中での一貫性はなんとかつながっているかな、と考えています。

後藤先生と.tif右から千葉、後藤先生、小木曽、内野(インターン生)

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お米のディバイダー.tif
編集後記.tif
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shujiface.jpg千葉 修司

「おもてなし」をそのまま心で、行動で体現されている方。これが、後藤先生と出会い、これまでお付き合いさせて頂いて、僕が持っている印象です。

そんな後藤先生の人生と、その中で追い求められてきたテーマ、根幹にある「食」についてお話を伺い、「食」について考えさせられるばかりではなく、後藤先生ご自身の生き方に、すごく感銘を受けました。太いテーマを軸に置き、自らの職業でトライされ、検証され、そしてまた新たなテーマを設定される。そんな意思決定のされ方と、背景にある強い気持ち、そして、それらの集大成としての「ストーリー」に強い刺激と感動を頂きました。

美味しさを求めるのは当然。だけどそれだけじゃない。食が持つもっと原始的な、もっと根源的な力に気付かされたインタビューでした。全てがご自分の人生での実体験から生まれた教えであり、こんなお話を伺えた僕は本当に幸せです。後藤先生が食べ物や、その食べ物を扱い、口にする人に対し、敬意を払い接してらっしゃるその背景を少し拝見できた気がします。そして、常々感じさせて頂いている「おもてなし」についても。

このインタビューを通じ、僕も後藤先生のように「自分の人生を生きよう」と、とても清々しい気持ちになりました。また、このインタビューを通じて大学の先輩でいらしたことも知りました。とっても嬉しかったです!

先輩、これからもたくさん学ばせて下さい。どうも有難うございました。

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kenface.jpg小木曽 研

「人にとっての食」「食の原体験」のお話に、自分の原体験と重ね合わせて、感慨深い思いと共に、感銘を受けました。

人間、食が無ければ勿論生きてはいけません。
でも、その食は、すべて自分の意思で決めていたのか、と言われると、そうではなく、幼少期に両親や祖父母により与えられた食によって、ある程度の方向性は決まるのだろうな、と再認識されました。
祖母が食べさせてくれた、凝ってはいないけれど、新鮮な素材を活かした料理(と言っても、お米を基本にキュウリやトマトをそのまま食べる、ということも多々有りましたが)が自分の食の原体験になっていて、この味が影響して、今自分の食の好みや方向性を決めたのだろう、と思います。

食は生きることと直結していて、食は人生の大きな部分を占めている。
一人一人が「自分にとっての食」「子どもに食べさせたい食」を考えていけば、きっと日本のお米は残していかなくてはならないもの、として、無くならないし、無くしてはいけないな、と感じました。

後藤先生、貴重なお話、ありがとうございました。
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kamonface.jpg嘉門 佳顕

人間は何で食に喜びを感じるか、考えさせられた。

東京寿司アカデミーさんの人気プログラム「飾り巻き寿司の体験講座」を、僕らのお声掛けで青山Farmer’s Marketにて出前講座してもらったことがある。平らに敷かれた海苔とご飯に、一つ一つ色とりどりの仕込んだ素材をある順序で並べ、グルっと巻いてバサッと切ると、きれいな絵柄の断面になっている。2Dが3Dになってまた2Dになるドラマチックな過程に参加者の方々にも自然と笑顔がこぼれていた。飾り巻きずし.tif後藤先生のデモンストレーションではアンパンマンの絵柄が披露され、子どもたちが集まりはしゃいでいた。富士山と日の出の絵柄は海外でも好評だそうだ。
食べるために飾る。見方を変えれば食べれば無くなるにもかかわらず、飾る。何とも人間的な行為だ。食文化という言葉が表す、食べることと、その喜びをより豊かに感じるためのその周辺にある風習や工夫とその楽しさ。それをコンパクトに実感した印象深いイベントだった。

先日、ある新聞が21世紀はロボットの世紀になると特集していた。
日本の人口が減って超高齢化が進めば、不足した労働はロボットが補って助けてくれるようになるそうだ。人間の手足、そして頭脳の代替。
今日でさえ、将棋ではプロ棋士に勝ち、車も運転できるようになっている。ロボットより人間が優れていると、いつまで言い続けられるのだろう、ちょっと怖い。一方で五感が科学されて拡張現実が当たり前になり、医学の進歩で人間の寿命も120年まで射程圏内。ロボットは人間に、人間はロボットに近づく。いつかロボットがロボットを作って自己増殖することができるようになったりするのかしら。

また別の特集では、エネルギーの世紀になるとも書いてあった。なるほどロボットが増えればその分エネルギーもいるだろう。
ただ、いくら時代が進んでも、エネルギーの調達の仕方は人間とロボットが同じになることはさすがにないだろう。効率からいっても食べてエネルギーをつくるロボットは想像しがたいし、そもそもロボットと食物を取り合いたくはない。逆に、人間にとって食べることは、エネルギーの摂取だけが目的ではない分、ちょっと複雑だ。味わい楽しむ感覚がある。それゆえ、食べることにもエネルギーと時間を使う。「ドラゴンボール」の世界には仙豆があったけど、孫悟空は貪欲に食べていたように、たとえ錠剤一つで人間の生命が維持できる未来になったとしても、食べる欲望から逃れられないはずだ。

後藤先生は、一人一人の食と向き合いたいとおっしゃった。それは、そんな人間の、動物としての記憶を紡ぐ行為なのかもしれない。人間の記憶は不安定だけど、その分、残ったいい記憶は愛おしく、何度も再現したくなる。食べる記憶はその典型だろう。そして、話にあったお米を触ると落ち着く生徒さんや、魚を捌けるようになりたい生徒さんのように、そのストーリーは人それぞれで異なる。これもまた人間っぽい。

食べることで感じる直観的な喜びは、人間への自然界からのライセンスなのかもしれない。大げさかもしれないけど、お話を通じてそう感じた。誰かに意図的に開発されたわけではなく、長い時間をかけて、生物としての進化の過程で地球に出てきた存在である証。1000年後の人間は「ほぼロボット」で、身体にバイオインプラントなりが埋め込まれ、自在に感覚や感情をコントロールできるようになっているとして、そのとき「ものを食べている」層はどんな人だろう。貧困層か、それとも富裕層か。

「基本的に、ごはんが旨いと思う感覚はなくならない。」
僕もそう信じて、おいしいお米を食べ、そして届けつづけたい。
お米のディバイダー.tif